さんぽ学派

大学生のあれこれ

伝統は残すべきか。

伝統という言葉が充てがわれる物を残すかどうか

その価値があるのかどうかがよく問われる。

そもそも伝統という言葉は洗練されたというポジティブなイメージのほかに

そのままマーケット内に放り出された場合、競争に打ち勝てないという意味もあるのではないだろうか。

そうした謂わば、現代と合っていない、淘汰されて当然の商品を保護し、または現代に対応するために革新を施す必要があるのだろうか。

伝統を残すという言葉には抵抗がある人もいると思う。

「残す」ということはその製品がこれから進歩していく可能性を停止させ、保存することに注力することにもなる。そうすると評価もされない(売れない)ものを残すことにもなる。当然、市場規模は小さいし、企業にとってはそうした市場にとどまることは好ましくない。

だから、伝統のものを少しリメイクして、つまり、革新もしくは創造して常に進化するものを目指そうという動きもある。この背景には伝統となったものは常に伝承、革新を繰り返してきたから伝統的なものをリメイクするのは当然という思想的な背景もある。

また、ある経営者が言っていたことには伝統は過去の時代においては最先端だったものであり、時代の最先端が残っていたものだという。だから、今後も伝統はその時代の最先端であるべきだし、そう進化する必要もあるという。

最近、私の周りではどちらかというと後者の方が優勢な感じがする。

現代的なものと伝統を合わせ、新たな地平を開くという試みがあちこちで行われている。

では、私はどう考えているかというと実は伝統はそのまま保存した方がいいと思っている。

なぜかというと、伝統の産品は昔の思想を私たちに伝えているからだ。

そうした思想や精神は昔から伝承したオリジナルにしか宿らないと思う。

例えば、日本思想を考えるときに引き合いに出される庭、寺社建築を参考にしてみる。京都に行けば数百年変わらない庭がある。そうした庭はその保たれてきた姿から私たちは日本古来の雰囲気、もしくは風土といったものを感じているのでないだろうか。

だから、そうした庭や建築が現代に合うように蛍光灯が入っていたりやライトアップされていたりすると何か興ざめな気持ちになる。

伝統のものを残すというのは、物質的なものの保存よりも、その製造工程や鑑賞の作法における思想を残すという意味で価値があると思う。

伝統に現代の思想を取り込むのではなく、伝統となった産品から私たちが何を感じ、それをどう現代の思想にどう反映するかという逆のアプローチも重要だと思う。

伝統や歴史といったものは人類に対して反省を促すものだとも思う。負の遺産もあるし、または現代忘れ去られた時間の流れがそこにはあるのかもしれない。

そうして直線方向に進化していくのではなく、絶えずループするかのように立ち返ることで善い生を全うできる高等な生き物と私たちはなるのではないだろうか。

従って、伝統をそのまま残すというのは私たちの軌跡を残し、それから学ぶ機会を得るという点で必要だと思う。

ただ、そうした伝統産品は市場経済の中で存続するのは厳しいと思う。おそらく、伝統というふうに言われている時点で絶滅危惧種のようなニュアンスが付加されているだろうから、再び流通にのせることは困難を極める。

しかし、私たちの社会はどこかでそうした旧来のものに対する回帰を求めている。

モジュール化された生活の中でそれとは違った物を潜在的に求めていると私は思う。

だから、そうしたニーズに合わせるためにチャネルを選択し、またはそうしたニーズが顕在するように芽生えさせることが必要で、そうした努力は私たちが善い生を送り、人類として進歩するためになくてはならない誘導でもあると思う。