大学生と自分様
最近、ネットサーフィンをしているとやたらと綺麗なブログやまとめサイトなどに出会うことがある。
どこからかフリーの画像を引っ張ってきて、文章にはマーカーを引き、商品のリンクをつけ、いかにも手が込んでいる。ここまで個人でできるほどになったと思うと驚いてしまう。
ただ、そうしたものを見るたびに私は何かエゴのようなものを感じてならない。
結局はアフェリエイトに誘導したいだけじゃないのか、綺麗にまとめたその体裁が書き手自身、好きなだけじゃないのか。要するに単に多くの人に見てもらっている自分が快感とか、結局、自分が儲かるからその餌に文章を書いているのではないか、と思うことがある。
そうした、他人様の幸せのために自分が動員されているかと思うと腹立たしいのだ。
しかも、そうした儲けや書き手の自己満足へ導く方法が読み手には気づかないようにしてあるとよっぽどタチが悪いと思う。(金儲けのためにYouTubeを投稿すると宣言する一部の人のほうがまだ分かりやすい。そう宣言していただけば、もう絶対に見ないから。)
綺麗であるということはある意味、自分中心的なことではないかとふと思う。
綺麗であろうとすることは、綺麗な自分を愛すということに繋がっているからだ。最終的に考えている対象は自分様がどうありたいかなのだ。
海外に留学していると国際系の生徒に多く会う。
時々、どこどこの国にボランティアに行ったということを勲章のように書き連ねている人がいる。彼らにしてみれば大学の講義も海外での活動も就職のための、つまり自分のためのものでしかないんじゃないかと思うことがある。
もしくは、やたらと人の考えないことばかりやったり、行動力があることを示したり、する人も多い。
もちろん、そうしたことをして人から認められたときの快感といったら一入である。
ただ、最近、どうやら周りの大学生はそんな人が多いように思える。
何か、青臭い議論をしたり、迷ったり、する姿をあまり見ない。
なにか人工的なほどクールだと常々思う。
周りの目線を気にする。しかしそれは周りへの配慮のための目線配りではなく、自分がどう見られているか、どう評価されているかばかり考えているような気がする。
だから、みんなで足を引っ張るかのように頭で考えることをやめた人間が大量発生している。(しかし、どこかの有名なテレビ討論や番組を見て自分は知識がついたと勘違いし、満足する輩もいる。)
でも、今更、こんなことを喚いてもしかたいのだ。
何か気が重くなる今日この頃である。