さんぽ学派

大学生のあれこれ

南京事件について思うこと

 昨日、南京の大虐殺の記念館へ行ってきた。

去年も南京へは行ったが行けず仕舞いだった。

入り口で少し並び、夏休みということもあり、人も大勢いて暑かった。館内はまだ涼しいもののそれでも少し暑い。

南京は蘇州よりも何割り増しで暑かった。

よく、この南京事件はその有無も含め、データについて真偽が日中で、もしくは日本と連合国側の主張で別れる。なのでそこらへんには触れないが、大切なのは、実際にこうした事件があったと中国国民は認識しているということである。

歴史とは実は存在の重さや深まりを付与するものであるのに、不確定なものでもある。

科学的な調査方法が確立してきたとはいえ、未だに調査したり、解釈したりする人の主観が多分に入ってきているのではないか。

 

だから、歴史を事実を後世の人間が解釈したものと捉えると、歴史は民族や時、流行の思想などに影響を受け、多分に柔軟性を持っている。

日本人が南京事件をなかったとしても、中国人、もしくは連合国側の国民の心には確かに南京事件は存在しているのである。

それだからか、慰安婦問題もそうだが、話の折り合いは着かず、すれ違いになる。

決して、建設的になんとかすればいいのでは?という安直な解決を望むのではなく、むしろ、解決の糸口も、そうしようとする風潮も(いわば、こうした事件は利用されているようにも感じる)見えないのだから、なんともし難い。

 

戦争でなぜ、人は人を殺せるのか。

それは相手を人と見ていないのだからだという。

この事件や戦争の話を聞くと、では世界平和なんて達成するにはどうすればいいか、

それは他国の人間をきちんと人として尊重することではと思う。

戦争嫌い!世界平和!世界平和!なんて七夕の短冊に書いて、やれまた中国人が、アメリカ人が…なんて言っている人が多いがあれはあれで問題である。

つまり、自分の残虐性に気づいてないのである。短絡的かもしれないが、現実的にどう戦争を防ぐかを考えず、ただただ、さも自分は善人のように戦争嫌いを吹聴する人は、容易にあの熱狂的な戦時の雰囲気に染まるに違いない。

むしろ、そうした戦争嫌いは一つの浄化かもしれない。

そう言うことで、自分が倫理性に配慮した善い人であると信じたいのではないか。

今までの人間の軌跡を辿ると、人間はもっと野蛮なものなのである。

その野蛮さを認識せず、理性のみを頼りに生きている現代人に潜在的な恐怖感を覚えるのは私だけだろうか。

私たちはもう一度、自分は聖人でないと気付くべきかもしれない。でもそうできないのが多分、我々が地球上で繁栄してきた理由のようにも思えるが…

 

 

清朝の末期は列強の進出に苦難したとはいえ、中国は間違えなく、日本よりも進んだ国だっと。そうした国が、たったの数十年で瓦解するのである。

考えてみると、単純に兵力の差3倍近くあるのにも関わらず、南京は壊滅する。

世界の情勢も変わったし、質的に違うのでなんともそのまま日本に当てはめることが難しいとは思うが、日本もこうして壊滅するのではないかと思ってしまう。

やはり、自国を守るための精強な軍隊は必要なのではないか…

ふとそう思っている。

果たしてそれはどうなのか、今後私自身が勉強を積んでいくしかない。