LGBT問題とはなんぞや。
LGBT問題とはなんぞやと思う。
生物の中にはそもそも性別によって区別できない生き物もいる。
だが、人間は性別によって区別されている。ありとあらゆる場所で。
変に感じるかもしれないがトイレもそうだ。
男性用と女性用を分けるのは根本的には性別によって人の区別が行われていると言うことで、機能的にはどちらが男性でどちらが女性でも大丈夫だ。
だって便座さえあれば大丈夫なのだから
省スペースの乗り物のトイレは兼用も多いだろう。
やはり、性別によって人が区別されているということになる。
LGBT運動の行き着く先はこうした性に基づく考えの区別をなくすもしくは新設することにあるのではないかと私は思う。
少々、論が飛躍していて分かりにくいと思う方もおられるだろう。
細かく説明すると
今まで男性は女性に恋愛感情を持つということがレギュラーなこととされてきた。
このことは男性、女性と区別するために重要な役割を果たす。
もちろん、生物的に体の作りが違うということもそうした区別に重要な影響を与える。
ただ、恋愛するという行為はその後の人生において、いや、種の存続という本能的な義務を果たす上で大きな意味を持っている。また、SEXをし女性が妊娠をするということは生物的な面で性別の必要条件を満たすことになる。また、女性が出産するということでその後の性別に基づく役割が形成されてきた。
従って、男性と女性という区別という問題は恋愛対象がどの性別であるかに大きく依存している。
LGBT問題はこの恋愛対象についての論議でもあり、男性が男性に恋愛感情を持つということをもしくはその逆であったり、そのようなこともレギュラーとしようということではないだろうか。
そうなると、何を根拠に男性と女性という性別が存在するようになるのだろうか。
おおよそ、ジェンダーと呼ばれる後天的な区別が廃止され、先天的な生物的な性別が唯一の区別の理由となるだろう。
そうなれば、文化や社会の中で性別によって分けることの重要性は失われ、次第に性別を意識しなくなるはずである。
このことは何を意味するのか。
今まで、無意識的に性別に行動の根拠が求めら、また性別がアイデンティティの一部を形成していると思うことがある。
自分の性別の理想像というものが目標にあって、こうした姿の自分になりたいといった考えもそこから湧いてくると思う。
女性が女性のような服装と化粧がするのもその表れではないだろうか。
そういった生活に密着した、自分という存在に深く関わる中に自らの性がなんであるかは存在する。
こうして考えると、もし、LGBTという考えが本当に世の中に浸透すると大きな混乱の時代が来るのではないかと思う。
それは何が善で何が悪か判断のつかない時代に象徴される。多様な考えが受け入れられるということは善悪の判断根拠が無数に存在するということで、解釈だけで物事の本質が変化しうるということである。
ちょうどこの状況をソフィストが勃興した時代と私は似ていると思う。
弁がたつ者が権力を得た時代。世の中は次第に混乱し争いが絶えなかった。
倫理的な問題はさておき、巨大な教義というものは時には平和をもたらす。
ソ連が崩壊すると各地では紛争が起こった。
だから、明確な判断基準を社会の圧力で設けることはそういったことで意味がある。
現代でさえ、無数の考えが起き、絶えず善悪の考えが変化する不安定な時代に突入しつつあるのは間違えない。
その象徴がLGBTだと思う。
では、LGBTはそういった点で認めてはいけないのか。
これは難問である。ここで倫理的なことを加味すると認めないことはあり得ない。
ただ、もう少し熟考するべきである。
これは哲学的な意味においてである。
道徳的に正しいことが全てまかり通るという判断基準はあまりに短絡的だし、正義についての思考が浅すぎる。
LGBTについての議論が大きく感情や道徳的な善悪を根拠に短絡的なものが多いと感じる今日この頃である。