さんぽ学派

大学生のあれこれ

アウシュビッツと輪廻

以前、ポーランドアウシュビッツへ行ったときのこと。

惨たらしい遺留品や写真の数々を見て僕は何も思わなかった。

言い換えれば、特に悲惨だとか悲壮感だというものは湧いてこなかった。

なぜそう思わなかったかというと、こうした残虐や殺し合いは今までの人類の歴史の中でありふれているからである。

それはつまり、僕にとってもそうした命が失われることがありふれていることでもある。

 

私たち人間は遥か数千年前に地球に誕生してから、ものを慈しむのと同時に生命を殺めてきた。それがほかの動物がろうと、人間だろうと。

そうした人間の歴史は確実に私たちの遺伝子にも、また体を作る細胞にも組み込まれている。

 

アフリカで人類の祖先が誕生したときの遺伝子を、さらに言えば、人間が登場する遥か以前の生き物の遺伝情報も私たちの遺伝子には組み込まれている。

また、遺伝子以外に私たちを構成する原子も、地球が誕生してからの物理的、化学的変化の中で生まれたものであり、自分の体を作る前は誰かの体かどこかの動物や植物かそれとも石や水を形作っていたに違いない。

そうした遺伝子や原子は幾多もの殺戮を体験しているだろう。したがって、そうした遺伝子と物質の集合体が自分であるとするならば、我々は死を幾度となく経験しているに違いない。

すなわち、人類の歴史は自らの歴史であり、人類が残虐であれば自らも残虐なのである。

アウシュビッツで行われたことは人間の残虐性を示すものである。だが、人間が残虐であるならば、自らも残虐であるはずである。

したがってそうした残虐性を僕は認めるからこそ何も思わなかったのである。

もし端的にこのことを例示するならば、自らが母親を1000回殺したことがあるものがまたもう一度殺害を起こしてもそれに阿鼻叫喚するのだろうか。しないだろう。

私を形作る意識以外のもの全てが少なくとも今までの物質の歴史として1回はそうした殺害を経験してきたであろうに、私は曖昧模糊とした意識のみの情緒的な判断において自らの残虐性を否定することができるのだろうか。

僕はそれはできないと思う。私を構成する大部分が残虐性を帯びるもので有る限り、私自身も残虐だし、それを認知してそうした負の部分に向き合って生きていくしかないと思う。

先ほど書いた、受け継がれる遺伝子のことや、物質の地球上でのサイクルのことは輪廻の思想に通づると思う。

むしろ、宗教的な輪廻の思想を科学的に理由付けすると上記のようになるのではないだろうか。

物質は永遠に形を変えつつ存在している。私たちはそうした物質の永遠の流れの残滓の一つにすぎないし、この永遠の流れを止めることもできない。

我々はそうした物質の記憶に加筆するものであり、やがて、我々が死んだ後は我々を形作る各分子、もしくは原子は再び次の生命体もしくは物体に姿を変えてゆく。

この過程が輪廻ということなのだろう。だから、私は前世というよりも今までの物質がこの空間(宇宙)に誕生してからの全ての輪廻の最先端であり、また経過地点でもある。言い換えると、今までの数千、数億、数兆もの生命の誕生とその滅亡という歴史を体現してきたに違いないし、今後も体現するだろう。

だから、私たちは本質的には数千の命が生まれ、それが死のうともなんら変化しないのだ。心が動いたように見えるのは、意識下においてそう見えるにすぎない。

では、もし、仮に本質的にそうした残虐性を体験することで自らの行動を変える(つまりそうした残虐性に悲壮を感じ改心する)のであるならば、とっくに人間の争いは終わっているだろうし、とっくに人間は絶滅してるに違いない。